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『婚礼』<カミュ [あらすじ]

『婚礼』あらすじ<カミュ
 1935・6年頃に書かれ、1938年にアルジェの友人が経営している小さな書店から小部数発行された初期エッセイ集である。「チパザの婚礼」・「ジェミラの風」・「アルジェの夏」・「砂漠」の4編からなる。カミュが『異邦人』を書いて有名になるまで埋もれていたが、『異邦人』愛読者や研究者から再販の強い要望があり、1958年にガリマール社から復刊されものである。後のカミュ文学のエッセンスが凝縮されているといわれている。
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 第一篇はNoces à Tipasa「チパザの婚礼」と題されたものだ。Tipasaとは首都アルジェから地中海沿いに西へ約70キロほど行ったところの古代ローマの廃墟の名である。カミュはここへ学生時代に友人と何度か訪れ、その時の印象を詩的な情感を込めて綴った。この一つが「チパザの婚礼」だがいわゆる「結婚」MariageではなくNocesとしたのは、大地(自然)と人間の合体を「謳う」というようなニュアンスがあるので、あえてこの語を使ったのだろう。物語の短編ではなくエッセイなので、要約の仕様もない。全体が詩的散文ともいえる小品になっている。
 出だしは、「春、チパザには神々が住む。太陽とアプサントの匂い、銀を鎧った海、真っ青な海、花々に覆われた廃墟、積み重なる石にほとばしるように注ぐ光」。
 中頃の昂揚した部分では、「私は無性にこの生を愛し、自由にこれを語りたい。この生は私に人間の条件の誇りを与える。然るに他人(ヒト)は私によくいう、誇るに足るものは何もないのだと。否、誇りにたるものは確かにある。この太陽、この海、若さに踊りあがるこの心、塩味のするこの肉体、優しさと栄光とが黄と青との会い合うところのこの壮大な背景」。
 最後あたりでは、「大切なものは、ただ調和であり、沈黙であり、それは世界から私へと向かう愛を生みだすものだ」という文言が据えられている。
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 第二編はLe Vent à Djemila「ジェミラの風」と題されている。Tipasaはアルジェから西に位置したところだが、ジェミラはアルジェから東の方角で地中海から100キロほど内陸にあり、やはりここも古代ローマの廃墟である。「チパザの婚礼」が生の昂揚を高らかに謳ったものとすれば、「ジェミラの風」には反転して死の影がつきまとう。私はTipasaへは行ったが、Djemilaへは行けなかったのでその地形がよくわからない。Tipasaは海に面した開放的な空間だったが、こちらはどうも閉鎖的な場所であるらしい。
 「精神それ自身の否定という一つの真理を生むために、精神の死の場所がある」というのが出だしの文言だ。続いて「この街はどこへも通ぜず、いかなる国へも向いていない。これはゆきどまりの街だ。死せる街は曲がりくねった長い道の果て」にある。
 だが若いカミュの精神は死の前でへたってはいない。「死がもう一つの生を開くという信仰は私の気にいらぬ。私に言わせれば、死は閉じた扉だ。踏み越えねばならない一歩だとは言わない。むしろ恐ろしく不潔な事件だ」となる。
さらに「この厳しい死との対面、太陽を愛するこの肉体的な恐怖。・・・・文明の真の唯一の進歩とは、意識された死を造ることだ」と死から生へと反転がなされる。そして「死に対するわが恐怖は、生に対する羨望に繋がることを、私は悟る」となる。
 当時カミュは結核と診断され、治療に専念していたが、絶えず死に直面した精神状態で「いかに死から生へ反転する精神的なもの」を獲得するか、もがいていた様子がこの短編からも窺がえるところである。
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 第三編は一転してカミュの生地アルジェ及びアルジェ人についての赤裸々な紹介文のような作品だ。
 「何かを学び、自己を教育し、乃至はよりよくなろうと欲する人のためには、ここには何一つ役立つものはない。この邦は何の訓えもない。この邦は約束もしないし、仄めかしもしない。この邦は与えることに、しかもふんだんに与えることに満足する。・・・この邦の要求するものは、明識あるすなわち慰めなき魂である。人が信仰の行為をなすが如く智識をもって振舞うことを要求する。自らが養う人間に向かって、同時にその魅惑と悲惨とを示すところのこの奇妙な風土。・・・身を寄せる何ものもなく、また憂愁に気を紛らす場所ひとつない。他の邦ならば、イタリアのテラス、ヨーロッパの修道院、あるいはプヴァンスの丘々など------人間がその人間性を逃れさせ、自分自身に甘えながら解放される場所がある」という。
 ジイドの「肉体を賞揚するその仕方」を批判し(「地に糧」などのことであろう)、友人の例を引き合いにだしてアルジェ人の解放的な特徴を次ぎのように言う。
 「わが友ヴァンサンは桶屋でジュニア級の平泳ぎの選手だが、もっと明快な見識を持っている。彼は喉が渇くと飲み、女を欲すれば、共に寝る。女を愛するなら結婚するだろう(まだこんなことにはならないが)。「これでいい」と彼はいつも言う。----この言葉は、充足についてなし得べきアポロジーを力強く要約するものだろう」。
 アルジェの風土についてしばらく描写した中に次のような文言が嵌め込まれている。「しばらくこの邦から離れていると、私はアルジェの黄昏を幸福の約束のように想い描く」。
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 この段落ではアルジェ人のモラルについて述べられている。
 「道徳はあるが極めて特殊なものだ。人はその母親に<背かない>、街ではその妻を尊敬せしめる。妊婦には敬意をはらう、一人の敵に対しては二人ではかからない。<それは卑怯になるからだ>。こうした基本的な掟を守らぬものは、<人間ではない>」。
 「アルジェの日曜日は最も陰鬱なものだ」と述べたあと、「この宗教なく、偶像なき民は、群れをなして生きたのち、ただ一人で死ぬ」という。
 死と生の価値が密接に結びついていることを述べたあとで次のようなエピソードを披露している。
 「アルジェの葬儀人が空で送ってゆくとき、よくこんな冗談をあやる------道に行き会うかわいい娘たちに向かって「姐さん、乗るかい?」と呼びかけるのだ。困ったものだとしても、そこには一つの象徴を見ることを妨げる何もない。・・・ここでは一切が、生へと誘う邦で死ぬことの恐怖を呼吸している。・・・かかる民は万人から受け入れられることはない。私はこれをよく承知している。知性はイタアリアのようにその地位を持たない。その種族は精神には無関心だ。・・・これは過去がなく、伝統なき民ではあるが、詩がないわけではない。・・・文明の民とは対照的に、これは創造の民だ。・・・自己の現在の中に全的に身をひたしている民は、神話もなく慰安もなしに生きる。・・・この空と、空へ向けられたこれらの顔との間には、一つの神話学、一つの文学、一つの理論ないし宗教がひっかかるようななにものもない」。
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 このパラグラフではアルジェリアの厳しい自然環境が天上的なものを志向するのではなく限界のある生の中での生き方を示唆している。幾つかカミュの思想を表現していると思われるフレイズを拾ってみよう。
 「超人的な幸福というものもないし、日々の曲線の外に永遠があるわけでもない」
 希望という語について世間一般の人が常識的に理解している意味とは全く異なるカミュ的見解を述べている。少しながくなるが引用しておこう。
 「人類の諸悪が蠢いているパンドラの箱から、ギリシャ人は、あらゆるものの一番あとから、希望を飛び出させた。最も恐るべきものとして、これほど感動的な象徴を私は知らない。思うに、希望とは、普通信じられるところとは反対に、諦念に等しいからだ。そして生きるとは諦めないことだ。ここに少なくともアルジェリアの夏の厳しい訓えがある。」
 カミュがあの世の天上的幸福を願うのではなく、あくまでも現世的な生き方を考えているかを示す重要なところだと思う。のちの『シジフォスの神話』を予告して重要なフレイズである。
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 第四編は「砂漠」と題され、大学時代の恩師ジャン・グルニエに捧げられている。テーマは人生の現実を砂漠に譬えたのだろうが、先ずはイタリアの古の画家ジョットーやピエロ・デルラ・フランチェスカを讃える。「永遠の線のうちに凝った顔から、画家は永劫に精神の呪詛を解放した。・・・肉体は希望を知らないからだ」ということらしい。
 前節で希望という言葉はカミュにとって常識的な解釈とは真逆の諦念ということになるからだ。希望とは「無いかも知れない」未来を想像し現在を否定するからである。カミュにとって現在「いまここ」が重要なのである。「大地と人間との共鳴、それによって、人間は大地とひとしく、悲惨と愛との半途に自己を決定する」。
 「恋いのために死ぬほど無駄なことはない。生けるロレンゾは地下のロメオに勝る」というフレーズも見られる。「肉体と瞬間との二つの真実、どうしてそこにかじりつかずにいられよう」とも述べている。
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「最も忌むべきマテリアリズムは、ひとの信ずるところのもではなく、まさにわれわれに向かって、死せる観念を生ける現実と見せかけるもの、われわれのうちに永劫に死すべきものに対してわれわれの抱く執拗にして賢い注意をば、不毛な神話の方へと振り向けるものだ」ではじまるこのパラグラフは、厳しく生と死の現実を見つめている。花咲く現実と隣あわせにある死。フィエゾールのフランチェスコ派修道院での印象を次ぎのように記す。「一隅に、緑色の如露があった。来る前に、私は修道士の小部屋を訪れ、髑髏のついた備えつけの小机を見た。・・・列柱と花々との間に閉じこもったあのフランチェスコ派の生活と、一年を通じて陽光の下に過ごす、アルジェのパドバニの浜の青年たちの生活との中に、私は一つの共鳴を感じた。彼らが身を裸にするのは、より大いなる生のためなのだ(もう一つのあの世のためではない」。
 アルジェという過酷な自然環境の中で生きる人々を描いたあと「自らを成就せしめる神を持たぬ知性は、自らを否定するものの中に神を求める」という。
 「一つの存在とそれが営む生活との間の単純な調和でないとしたら、いったい幸福とは何あろう」と述べたあと、「フィエゾール、ジェミラ、太陽の中の港々、人間の尺度というか?沈黙と死せる石、他の一切はお話だ」とこのパラグラフを結ぶ。
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 このフレーズではフィレンツェのポポリの苑の高みに立った時の感慨を述べている。要するに幸福とはこの世(現世)にしかないことの確認ともいえるだろうか。
 「私の愛とこの美しい石の叫びなくしては一切は虚しいと。世界は美しい。そして世界をよそにして、永劫の福祉はない」。
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 「砂漠」の項では「未来に飛躍することなしに」現世の幸福を追求するというのがテーマだが、最後のこのパラグラフでもそのことを再度確認していると言える。「霊性が道徳を拒否し、期待の欠如から幸福が生まれ、精神が肉体のうちに自らの理由を見出す微妙な瞬間」に留まらねばならないという。パラグラフの最後の方で「私は讃えるだろう、私は讃える、人間を世界へと結ぶこの絆を」という文言が目をひくところだ。







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