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オノレ・ドゥ・バルザック [生涯]

Honoré de Balzac(1799-1850)
 パリ南西部トゥールに生まれた。パリに出て20歳の時に文筆で立つと宣言。生計費を得るために匿名で通俗小説を書く。さらに経済的安定を得るため出版業・印刷業・活字鋳造業とつぎつぎに手を出すがすべて失敗し、約6万フランの負債を生涯にわたって背負うことになる。
 30歳の時新たな決意で歴史小説『ふくろう党』でデビュー。以後その死まで約20年間、濃厚なコーヒーをがぶ飲みしながら、一日多い時で18時間、平均で12時間働き、小説・戯曲・評論・雑文に超人的執筆活動をする。
 1834年『ゴリオ爺さん』執筆に際し<人物再登場>の方法を案出、「19世紀フランス社会史」を描くという膨大な意図を体系化するために、全小説作品を一つの総合題名『人間喜劇』のもとにまとめることに決定。この小説群は長短合わせて約90編の作品があり、約2000名の人物が登場する。代表作には『谷間の百合』・「ウージェニー・グランデ』・『従姉ベット』などがある。
 私生活では女性関係も華やかで、中でも重要なのは『谷間の百合』のモデルになった22歳年上の初恋の女性ベルニー夫人と妻になったポーランド貴族ハンスカ夫人である。ハンスカ夫人とは結婚がかなった喜びもつかの間のその5ケ月後にエネルギッシュな生涯を閉じた。51歳という若さだった。
 バルザック残した作品を現在、一日8時間労働で左から右へ書き写す人がいたとして、20年を要する分量だといわれている。その分量は脅威的なものである。

ヴィクトル・ユゴー [生涯]

ユゴーVictor Hugo(1802-1885)
 19世紀前半のロマン派の領袖的存在。フランス東方のブザンソンで生まれたが、のちパリに出る。詩・小説・劇・評論・旅行記・随見録などあらゆるジャンルの作品を残した。
 作品も幅広いが、人生的にも波瀾万丈の生涯だった。初期は王党派だったが、ルイ・ナポレオン(大ナポレオンの甥)が独裁の野望を露わにした頃から、民主主義的色彩を強め、人道的な熱弁をふるった。そのため英仏海峡の小島ジャージー島・ガンジー島に逃れることを与儀なくされた。1870年に普仏戦争が勃発し、ルイ・ナポレオンの第2帝政が崩壊すると亡命生活も終わりを告げパリに帰還。
 日本では小説『レ・ミゼラブル』が有名だが、本国フランスでは詩人としての価値に重きが置かれている。イギリス文学と言えばシェクスピア、ドイツ文学ではゲーテと言われるが、フランス文学ではこのような「高峰」がいないということで、一時ユゴーをフランス文学の代表のようにしようと豪華な全集などが出版されたが、定着しなかった。このことを逆に言うとフランス文学は、アルプス山脈のように平均してレベルが高いという言い方がなされている。劇作『エルナニ』は後世から作そのものの評価はされなかったが、観客を動員し「やんや」の喝采を起こさせ、古典派に「打ち勝った」エピソードはフランス文学史上有名な語り草。以後ロマン派が優勢になる。
 私生活では、妻に不倫をされたり(ただし、自分も愛人をつくり、生涯彼女と共に暮らす)、愛娘のレオポルディーヌがセーヌ川で溺死するという悲劇に見舞われている。生涯を閉じたときにはパリ市民200万人に見守られ、フランス国家に功績があった人が埋葬されるパンテオンに葬られた。

アポリネール [生涯]

アポリネールGuillaume Apollinaire(1880-1918)
 ポーランド亡命貴族の娘を母とする私生児としてローマで生まれた。少年期を南仏で過ごすが、19歳の時母に連れられてパリに出る。
 いくつかの習作的作品を出したあと、句読点を廃した詩集『アルコール』と、当時もっとも革新的な絵画を擁護した『立体派の画家たち』を上梓する。
 詩集は前衛的で現代詩の先駆者と目される。その革新性がのちの詩人やヌーボー・ロマンの作家たちに影響を与えた。「恋は過ぎる この流れる水のように 恋は過ぎる ・・・」 Sous le pont Mirabeau coule la Seineで始まるLe Pont Mirabeauはシャンソンとしても有名。マリー・ロウランサンとの失恋のあとに作詞されたとも言われている。
 ブログ講座「フランス語構文学習講座」で収集した例文は余興のように作話された短編集からのものである。

サン・テグジュペリ [生涯]

Antoine de Saint-Exupéry(1900-44)
 フランス航空機界草創期のパイロットとして、北アフリカついで南米パタゴニアで新空路開発にあたるかたわら、ペンを執り『南方郵便機』Courrier-Sud(29)、『夜間飛行』Vol de Nuit(31)などを上梓し、航空文学の先駆けとして作家デビューをする。
  その後空から人間界を見おろし人間を観察して人類愛から人間同志を結びつけることの重要性を痛感して『人間の土地』Terre des hommes(39)を書き、空の上で思索したモラリスト作家の系譜に位置付けられいる。「大地は我々のことについて、万巻の書物よりも詳しく我々に教えてくれる」(『人間の土地』)
 第2次世界大戦では偵察飛行に従軍。この体験から『戦う操縦士』Pilote de guerre(42)を世に送る。一時アメリカに亡命するが、大戦末期連合軍の反抗とともに北アフリカ戦線に復帰。パイロットとして出撃するには年齢の限界を超えていたが、44年に偵察飛行のため基地を飛び立ったまま消息を絶ち、地中海に墜落したことまでは確認されているが、飛行機の機体および彼の遺体は未発見のまま。遺作として文明論ともいえる『城砦』Citadelle(48)を残した。
 彼の作品で最も人口に膾炙しているのは大人の童話と言われている『星の王子さま』Le Petit Princeだろう。日本で60年~70年代頃にブームとなり、OLが『星の王子さま』の翻訳を小脇に抱えているのが「流行」していた。大学の卒論で『星の王子さま』をテーマにする女子学生が毎年いたことがあった。
 私個人的には『星の王子さま』より『人間の土地』の方が好きだ。

アンドレ・マルロー [生涯]

André Malraux(1901-1976)
 フランス現代の小説家・政治家・美術評論家。最近ではあまり言われないがサンテクジュペリとともに行動主義の作家としてネーミングされていた。
 コンドルセ高等中学校を経て東洋語学校の聴講生となり美術・考古学を学ぶ。1923年古代クメール王朝遺跡のためインドシナに赴く。そこか古代仏像の一部を持ち帰るが国家財産略取の容疑で逮捕され裁判にかけらる。この件では釈放されるが再度インドシナ、および中国へ行き、広東での革命政府にかかわったとされている。この時の体験から小説『征服者』、『王道』などを上梓する。さらに長編『人間の条件』を世に問う。初期のヨーロッパの既成社会への反抗を描いた作品から、人間理解はさらに深まる。「個々の死を乗り越えて生きる人間の文明に対する信頼への道筋をはっきりとみること」(白水社『フランス文学史』)ができる。
 36年には一転反ファシズム運動のためスペイン戦争に飛行隊長として参加。この時の体験を小説『希望』で表す。40年にはフランスレジスタンスに参加し戦う。このように神出鬼没の行動をとることから「行動主義」の作家といわれるが、戦後はド・ゴールと肝胆相照らす仲となり、ド・ゴール内閣に入閣し文化大臣の職につく。パリの街の建物が年代により薄汚れたのを綺麗にする清掃作業を指揮し、明るい街に変貌させた「業績」もある。日本にも来日し各地を回って、美術品などを鑑賞したこともあるが、京都神護寺の源頼朝像を絶賛したことは絵画ファンにはよく知られていることである(ただし、最近の研究でこの人物像は頼朝ではなく頼義だという新説が浮上している)。
 政治家になってからは小説作品はなく、専ら美術研究に没頭し『芸術の心理学』全3巻など、次々と美術論をを書いてこちらの方面で高く評価されている。
 私生活では子供を事故で亡くしたり、妻にさきだたれたりして苦難の人生だったようだ。

ジャン・ポールサルトル [生涯]

Jean-Paul Sartre(1905-1980)
 現代フランスの哲学者・小説家・劇作家・時事評論家など多彩な活躍をした。第2次世界大戦後、実存主義を標榜してフランスのみならず世界の思想界をリードした大者。
 フランスの秀才が集まる名門校「高等師範学校」Ecole normale supérieureを主席で卒業する。同校にいたシモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールと出会い生涯をともにする(婚姻関係はとらず契約結婚という形態をとり当時話題となった)。小説としては初期の『嘔吐』が有名。これは実存主義思想をイメージ化した小説と言えるが、「実存は本質に先立つ」L'Existence précède l'essence.という命題に基礎を置く哲学書『存在と無』は質・量とも現代思想の遺産とも言える大著。その他小説としては『自由への道』が重要だが、劇作も『蠅』・『アルトナの幽閉者』など多数の作品がある。時事問題を『シチュアシオン』全10巻のタイトルのもとにまとめた評論集は現代の世相を映す鏡的な意味を持っている。
 カミュとも一時友人関係にあったが、いわゆる「カミュ=サルトル論争」以来袂を分かち現代の思想界に亀裂が走った。しかし、1960年にカミュが自動車事故で急逝した時に書いた弔辞は彼の度量の大きさと深さがあり感動的な葬送の辞となった。

ロマン・ロラン [生涯]

Romain Rolland(1866-1944)
 フランスの劇作家・小説家・音楽研究家・伝記作家など多彩な分野でその業績を残している。短編『ピエールとリュス』、長編小説『魅せられたる魂』などを書く。『ジャンク・リストフ』は全10巻にも及ぶ「大河小説」の先駆的作品。
 生命礼賛から出発し、英雄的人道主義にユマニストとしての彼の生涯をささげた。第一次大戦の時、「戦乱を超えて」と題して自己の思想表明をしたが、戦争気分に傾く民意の中で非難をあびた。
 長編『ジャンク・リストフ』はほぼベートーベンの生涯をなぞるよな大作だが、『魅せられたる魂』はそのタイトル名から女性に人気があったものの「女ベートーベン」のような意志の強い女性を主人公にしたこの作品は冗長の感を免れず今ではあまり読む人がいないようなのが現状のように思われる。
 モーパッサンの『脂肪の塊』という作品と混同され、『魅せられたる』という仏文学専修の学生がいると笑い話のような記事が週刊誌に出ていた。

ジャン・ジャック ルソー [生涯]

Jean-Jacques Rousseau(1712-1776)
 フランスの文学者・思想家。18世紀を代表する作家だが、その影響は21世紀の我々にまで及ぶ。ジュネーヴの時計職人の子として生まれたが、10歳の時父が家族を捨てて家出したため、13歳から徒弟に出される。しかしそこを逃げ16歳から放浪生活に入った。旅先でヴァランス夫人(Mme de Warens)に出会い彼女の庇護を受けるが、同時に彼女の愛人にもなる。しばらく夫人の家にとどまるがその後パリに出る。
 パリではディドロをはじめ百科全書派と交流を結び、1750年に懸賞論文に応募し、その論文『学問芸術論』が当選し一躍文名をはせた。その後『人間不平等起源論』、小説『新エロイーズ』、『社会契約論』などを上梓するが、『エミール』を出版したとき、この書に書かれている文明社会批判が当局の忌憚に触れ、焚書となり逮捕令も出されたので国外に逃亡した。一時社会からうける脅迫観念にとりつかれるが、彼の思想は のちの世界にあたえた影響ははかり知れないものがある。
 

アルベール・カミュ [生涯]

 Albert Camus(1913-60):Sartreと並び称させる現代の「古典的作家」。アルジェリアの貧農の子として生まれたが、小学校の教師に頭脳明晰と認められ、奨学金をもらい貧苦と病魔に悩まされながら大学まで終えた。青年時代演劇活動に情熱を注いだり、地方新聞のジャーナリストとして活躍した。大戦中は危険を冒してレジスタンスに参加、地下新聞「Combat」の編集長も務める。
 小説『異邦人』L'Eranger(42)、エッセー『シジフォスの神話』Le Mythe d Sisyphe(42)、で現代人の意識の底に潜む「不条理」absurditéの感覚を鋭く摘発して人間や社会のあり方に大きな問題を投げかけた。戦後、不条理思想を人間存在の根底にすえながら、それに反抗し、それを超えようとする努力をテーマに、小説『ペスト』La Peste(47)、戯曲『カリギュラ』Caligula(44<これは戦中に公表)、『正義の人々』Les Justes(50)、論文『反抗的人間』La Révolte、などを次々と発表。1957年には44歳という若さでノーベル文学賞を受賞。世界的名声を得たが、1960年1月に自動車事故で急逝した(享年47歳だった)。
 いわゆる「サルトル=カミュ論争」では、歴史主義思想を背景に完膚なきまでにカミュが敗北したという評価が流布していたが、最近生命主義ともいえるカミュのヒューマニズ思想がニヒリズムを超えて再評価されつつある。

ギュスターヴ・フローベール [生涯]

ギュスターヴ・フローベールGustave Flaubert(1821-80)

 19世紀中期写実主義の代表的な作家。パリより北西の小都市ルーアン市の医師の家に生まれ、幼時より特異な家庭環境の中で育った。青年時代パリに出て法学を学ぼうとしたが重い神経病の発作に罹り、以後ルーアン近郊のセーヌ河畔のクロワッセというところにこもって文学の制作に励む。有名な『ボヴァリー夫人』(57)、『感情教育』(69)、『三つのコント』(77)などの多彩な作品を残した。
 当時ようやく社会の中心勢力となったブルジョウワジーの平俗さに強い反発をいだき、反俗の姿勢を明確にした。元来ロマン主義的色彩の強い彼はその心情を抑制し周囲の自然・人間を厳しい目で観察し写実主義の領袖となった。のちモーパッサン・ゾラらの自然主義文学にいたる道を開いた。文体・言語に対する探究は有名で、現代の作家にも強い影響を与えた。

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